第22回 大田垣蓮月

おおたがきれんげつ(1791-1875) 尼僧
家族を失い文化を極めることで苦しみの人生を全うした尼僧

伊賀上野の城代家老藤堂氏の子として京都三本木に生まれる。名は誠(のぶ)。知恩院寺侍の大田垣光吉の養女となり、2度結婚(17歳と29歳)したが、どちらの夫とも死別し、また4人儲けた実子とも、その前後に相次いで失い、33歳で剃髪して蓮月と号した。

歌人としては、*1税所敦子と共に*2桂園派の双璧と言われ(歌集「海人の刈藻」がある)。茶の湯、いけばな、舞唄にも優れていた。また、養父が亡くなった後に移り住んだ岡崎で始めた作陶においては、蓮月焼の名で多くの素晴らしい作品を残している。

1857年に洛東白川村の心性寺に移ってから、当時22歳の*3富岡鉄斎に作陶の仕事を手伝ってもらいながら、祖母と孫のような暮らしをしていた。鉄斎はこうして学問や文人の心を学び、のちに「画聖」と言われるほどの画人となった。

蓮月は、「引越しの蓮月」と異名を持つくらいの引越し好きで、晩年は西賀茂神光院の茶所で余生を送り、75年に85歳で亡くなった。静かな死を望み、自らの死を富岡だけに知らせてくれと、遺言を残したという。

そんな人生を送った蓮月でも、*4梁川星巌*5梅田雲浜、また建仁寺の天章和尚らとも親交があったため、”勤王”と関連のある尼僧と見られることもあるようだが、戊辰戦争の時に官軍の西郷隆盛に和歌を渡したといわれるエピソードや終生続いたという慈善活動などからみても、その見方は違うという意見もある。同じ歌人でも女志士として有名な*6松尾多勢子や、多くの志士との交遊や庇護者として知られる*7野村望東尼とも違った存在であったということだ。

この意見には私も同感。女性に関する記事や資料は少ないながらも、松尾多勢子や野村望東尼には、関わった志士とのエピソードや事実などが残されている。もし、本当に勤王女流歌人として蓮月が活動していたとしたなら、やはりそうしたエピソードなりがあっていいはず。京都で行っていた救済活動の内容などからみても、多勢子のようにスパイ活動や望東尼のように志士の庇護者としての生活を送るなど無理なのではないかと思う。 残されている肖像画も、彼女の生きる姿勢や信念が滲み出ているような穏やかな顔つきだ。それは、尼僧としての苦行を続けていたことだけでなく、女として、そして人として、人生を生き続けることの苦しみ・悲しみを乗り越えて得ることの出来た心の安住があったから、そう思えてならないからだ。(2003/07/29)


*1 税所敦子: 薩摩藩士の妻であった敦子は、夫の死後も姑に仕え、のちに藩主斉彬の息子の子守り、さらに斉彬の弟久光の養女貞姫の結婚の際にそれに従って嫁ぎ先の近衛家に仕え、明治になって宮内省に出仕して最後には皇后の歌の相手を務めた。
*2 桂園派: 創始者は1768年生まれの香川景樹。鳥取藩士の次男であったが、様様な事情から堂上派歌人香川景柄の養子となる。和歌の真髄を万葉集に求めた賀茂真淵と違い、景樹は古今集にのみ求め、桂園派を確立した。
*3 富岡鉄斎(1835~1924): 京都出身の画家。幼児の頃から学問をおさめ、さらには絵を学ぶ。明治初期には大和石上神社、和泉大鳥神社の宮司をつとめたが、1881年に辞職した後は文人生活を送り、1917年には帝室技芸員、19年には帝国美術院会員に選出された。日本画家として国際的にも評価されている鉄斎だが、蓮月と過ごした時期に培われたものが大きく影響しているとも言われている。
*4 梁川星巌(1789~1858): 美濃国出身の漢詩人。15歳で江戸に遊学。その才能を磨き、弟子でもあった紅蘭と結婚したが、後も二人で諸国を漫遊して歩き、20年ののち、江戸お玉ヶ池近くに玉池吟社を開く。「日本の李白」とまで言われる彼もだが、病に倒れ亡くなる。それは、尊皇攘夷派の志士たちとの親交も深く、幕府に批判的でもあったため、安政5年に捕らえられる直前のことであった。
*5 梅田雲浜(1815~1858): 若狭国小浜藩士の次男。15歳で江戸に出て学び、大津で学んでいた時に師の娘と結婚。同地に湖南塾を開く。1843年には京に移るが、藩主に対して政治的発言をするようになり、1852年に藩を除籍された。生活が困窮する中、尊皇攘夷活動を行い、将軍継承問題でも一橋慶喜を支持。結果、安政の大獄で捕らえられたが、獄中で病死した。
*6 松尾多勢子(1811~1894): 信濃国下伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の庄屋の家に生まれた歌人。平田派国学(平田篤胤1774~1843の思想で幕末期、尊皇攘夷派の中心的思想となっていた)を学んでいた彼女は50代で倒幕運動に身を投じ、連絡員やスパイ活動などを行っていた。岩倉具視の信頼が厚かった多勢子は、明治維新後は岩倉邸で働いたこともあるが、晩年は郷里で過ごした。
*7 野村望東尼(1806~1867): 福岡藩士の三女。本名もと。同藩士と結婚するも、半年で離婚し、和歌を学ぶようになる。その師のすすめで同じ門下生であった野村新三郎貞貫の後妻になるが、その夫とも1859年に死別し、剃髪して望東尼となった。尊皇攘夷運動が活発になるとそれを支持し、勤王の志士たちを匿ったり、助けたりした。1865年になると、藩内でも勤王弾圧が強まり、望東尼は孫と共に島流しになるが、長州藩士高杉晋作の力により脱出した。

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