ひまわり

長年の宿題ともなっていたこの作品をついに鑑賞。ソフィア・ローレンもマルチェロ・マストロヤンニも嫌いではないけど、ストーリーを知ってずっと観られずにいた1本です。やはり、悲しいラストよりはハッピーエンドの方が好き。それは多くの人が共感するところですよね? 
同様に宿題になっていた「シェルブールの雨傘」もやっと鑑賞しましたが、どちらもラブラブな二人が戦争を境に結果的には別れることになったお話。こちらの感想はまた後日の投稿でお読みいただければ、と思います。

さて、「ひまわり」はロシア戦線で行方不明(推定で死亡とされている)となった夫の死を信じずに一人で探しに行ったヒロインが、咲き誇るひわまり畑に立つシーンが有名ですね。一面のひまわりに包まれたロシアの大地。その下で眠る戦没者たち。明るく華やかなイメージのひまわりと対象的な悲しみに満ちた大地というのが、よりこの映画の中の男女の別れを強調するようでもあります。

映画の冒頭では、二人がラブラブの恋人同士。そして兵役義務を伸ばすために結婚、さらに免除となるために健康診断で不可となろうとアントニオは精神的な疾患のフリをし、ジョヴァンナも病の夫を支える献身的な妻になりきる、というやや不謹慎な印象とコメディタッチな流れが続きます。昔の映画ということもあるのか、二人の馴れ初めや背景等はかなり省かれているので、観ていて展開が早く、あれれ、と思う間に出征の場面になり、尺長めの映画に慣れすぎた我々には感情の置いてきぼり感が漂いますね。ま、70年代の映画なのでそれはそれとして、この前半のあっけらかんとした陽気なイタリア女性といったジョヴァンナがアントニオがロシアへ送られてしまうと正反対の一途で健気な妻であり、嫁になるのはやや戸惑います。

とは言え、彼女のこの心の変化も「運命の相手」と出会った女の心の変化としたら、ありうるかも?とも感じます。だから、探し当てたアントニオは戦後のロシアで若い女性と結婚し、子供もいた事実にすんなり向き合うことはできないのは当然。でも、長いこと生死不明でいた彼の別の人生は頭をよぎらなかったのかなあ、と私などは考えてしまいます。思ってもみたくないけれど、死んでいないと信じたとして、なら何故帰ってこないのか。その真実を知りたくはないけど、何もわからないままではいられない。だからこそのロシア行きだったでしょうけど、帰りの汽車での大泣きの涙は複雑な思いだったことは伝わります。

ナポリに戻ったジョヴァンナもアントニオを忘れるために必死になり、別の人生を選ぶ。アントニオは当然のことながら、二人の女性、二つの人生に挟まれて苦しんでいるであろうことはわかるけど、しばらくしてから(考え抜いたとは言え、時間がかかりすぎ)ジョヴァンナを訪ねてロシアから戻ってきたのは、どうなのか? 「今更、遅いよ」と私もドアをピシャリを閉めたジョヴァンナに同感。もう二人は元に戻れないし、そのタイミングは過ぎている。
人生は、人と人の出会いは不思議。男と女の縁は更に不思議で時に運命じみている。戦争が引き裂いた二人、というけれど、本当に二人を離したのは戦争でも、実質的な「遠い」距離でもなく、ロシアの若く美しい女性でもなかったのではないか、と私は思ってしまいます。決断やそのタイミングがずれてしまうのは、それこそが「運命」なのかもしれない、と。
二人はその後、それぞれの人生を幸せに生きたと信じたいですね。有名なひまわり畑のシーンは確かに圧巻でした。戦死者たちを弔うために植えられたというひまわり畑と夫の死を絶対に信じない強いジョヴァンナの姿。けれど、突きつけられた現実の苦しさを胸に、姑に思わずぶちまけた思いは「死んでいてくれた方が良かった」。これこそが本音、私もそう思います。

もしかしたら、ジョヴァンナは「ひまわり」のような女性、そんな思いが込められたタイトルだったのではないか、とふとそう思った映画でした。(2025/02/27)

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