第23回 幾松(木戸松子)

いくまつ(きどまつこ)(1843-1886)芸妓
激動の時代に自らの信念を貫いた若き芸妓

天保14年、木咲(生咲)市兵衛の次女として生まれる。母は若狭小浜藩の範医細川太仲の娘末子。幼名計(かず)。父市兵衛が失踪したことで、母も夫を追って上洛。その母を追って、計も7歳の時に上洛した。しかし、父はすぐに病死。計は九条家の臣、難波家の幼女になる。この養母が三本木の幾松として昔その名を知られていた。

安政3年、計は木咲、難波両家の生計のために2代目幾松を名乗る。桂小五郎とは、文久2年6月~7月頃に出逢い、桂は山科のある豪家と張り合った末に、武力で取り上げたという。伊藤俊輔(のちの伊藤博文)が、いろいろと話をつけて落籍した。幾松は明治になってから、長州藩士岡部利済の養女となり、木戸孝允夫人となった。

幾松が桂と知り合ったときは、19歳である。多分、当時の19歳は今と違って精神的にはずいぶん大人だったのだろうと想像するが(幕末の志士達や幕府の人間も思っている以上に年齢は若い。いや、当時の平均寿命から考えれば、若いと言うのは正しいと言えないかもしれないが)、それにしても、かの有名なエピソード、潜伏中の桂に握り飯を運んだとか、新選組の近藤勇に桂の居所を聞かれたときの度胸のよさとか、を聞くにつけ、この強さは、ひとえに愛する男を守るための気持ちから来ているのだろうと思う。そうでなければ、ここまで強くはなれないんじゃないかと……。

とは言え、血を分けた子供ではなく、男と女。武士と芸妓。いくら、江戸末期だとはいえ、幕府の権威が揺らいでいる時期とはいえ、身分違いの恋だとすれば、しかも養うべき家族がある身だとすれば、こうまで一途に一人の侍に尽くせるものだろうか? とちょっと意地悪に考えてしまう。

いや、桂が女たらしのプレイボーイとか、自分の野心のために女を犠牲にしても平気な男だと言うつもりは毛頭ない。私が知りたいのは、それこそ、20歳そこそこの女の子といった雰囲気をまだ残しているような女性の彼に対する思いの強さだ。それが一体どこから来ていたのか、どんな根拠があったのか、と思うのだ。

人間は心底人を信じることは難しい。同性同士でも難しいのに、自分とは全く違う生き物である男のことをどのくらい理解し、信頼できるのか、そこに疑問を感じてしまうのだ。

幾松は、とても美しい女性だったということだが、同様に桂も男前で非常に頭の切れる男だった。美男美女のカップル。何だか、余計に胡散臭い。美男美女なんて、見かけほどアツアツのカップルなんかじゃないと思う(のは、美人じゃない私のひがみか)。

非常に深い絆を装いつつ、裏では裏切りやだましあいの連続、な~んて、くだらないドラマの見すぎと言われそうだが、私はきっと、幾松は本当に賢い女性だったのではないかと考えるのだ。特別、高等教育を受けたわけではないが、本来彼女の持つ理性や知性、それが彼女を救ったのだろうと。

彼女は自分自身を知っていたし、そして信じていた、そんな風に思う。多分きっと、誰よりもまず自分自身を信じること、それが一番難しいことだろうから。(2004/4/1)


桂小五郎(1833-1877): 長州藩士和田昌景の子。桂家を継ぎ、桂小五郎となるが、1865年からは藩の命令で木戸と改める。吉田松陰に学び(松下村塾生ではなかった)、剣は江戸錬兵館の斉藤弥九郎道場で神道無念流をおさめ塾頭も務めたが、剣を抜くことはあまりなく、「逃げの小五郎」の異名をもつ。兵法は江英龍(太郎左衛門)に学ぶ。1862年、彼は京都留守居役として上洛。後に結婚する幾松と知り合う。朝廷までも動かした尊王攘夷論も1863年の8月18日の政変で失敗し、さらに翌年、禁門の変での巻き返しにも敗れて政治的にも立場が苦しくなった。しかし、先見の目の持ち主であった木戸にとって、攘夷など口実で、高杉晋作を上海に行かせ、伊藤俊輔(のちの博文)を英国留学させたのも木戸のしたことだと言われている。更に兵制を改めたり、有名な薩長同盟を土佐の坂本竜馬の仲立ちで結ぶなどの働きがあった。維新後は「五箇条の御誓文」の案にも手を加え、廃藩置県の先導をとり、1871年11月の岩倉具視の欧米使節団には副使として参加。帰国後は天皇と議会が共同で政務を行う「君子同治」の憲法を考えていたようだが、征韓論に反対した彼は大久保利通の唱えた台湾出兵にも反対。また、病気がちとなったため政府を去った。明治10年、西南戦争中に病没。時勢の先を読む識見に優れていた彼も晩年は神経質で粘りのない性格が強く出ていたと言う。
近藤勇(1834-1868): 武蔵の国北多摩郡上石原村生まれ。父は宮川久次。彼の長男が音五郎、次男が惣兵衛、三男が勝太。この勝太が後の近藤勇である。近藤姓は勇の養父のもので、その養父近藤周助は勇の剣の師匠であり、天然理心流正統三代目であった。実家宮川家は農家だったが、兄弟三人とも近藤周助の門人として剣術の稽古の熱心だった。周助には子供がなく、勇の人物と将来性に期待をかけて、養子となったといういきさつだ。勇17歳のときである。四代目となった勇のもとには、のちの新選組の仲間となる面々が集い、1863年に上洛。浪士隊を脱した彼らは新選組を結成する。勇はその局長として激動の時期を過ごし、1868年に刑死する。(by Kozue Yukimura)
追記:新選組については書きたいことが山ほどあって、ここですべてを語るのは無理。そのうち、特別枠を作りたいのだが…
2004 年のNHK大河ドラマは「新選組!」。新選組に縁りのある各市ではイベントも行われました。私も彼らのファンになって、○○年。若い頃は、あの俳優にこの役を演じて欲しいなどと友人と話しに花が咲いたものでした。

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