第15回 若松賎子

わかまつしずこ(1864~1896)翻訳家
本当の自立を目指した文明開化の時代の日本女性

 この女性をご存知でしょうか? 1890年(明治23)に日本で最初にバーネットの書いた本「小公子」を翻訳して発表した女性です。
若松賎子こと巌本嘉志(嘉志子)は、1864年(※1元治元年)に会津藩士松川勝次郎の長女として若松で誕生しています。本名は甲子(かし)。勝次郎は翌年に※2公用人物書を命じられ、※3藩主の詰める京都へと赴任します。会津藩は戊辰戦争で負け、賎子達は父と離れ離れとなり、更には6歳の時に母が長年の苦労がたたってか死亡。幼い妹は親戚の家に、賎子は横浜の織物商山城屋の番頭大川甚兵衛の養女となり、横浜で育ちます。

賎子の英語との出会いは意外なようですが、7歳で※4ミス・キダー学校(現フェリス女学院の前身)に入学した時。聡明な賎子はキダーのお気に入りの学生でもあった様で、13歳の時には洗礼を受けました。18歳(明治15)で卒業した賎子は、そのまま教師として学校に留まることになります。

教師としても活躍した賎子の転機はやはり結婚にありました。将来有望な海軍士官の許婚がいたにもかかわらず、1889年(明治22)に文学者である巌本善治と結婚します。この結婚は経済的に安定したものではなかったにもかかわらず、賎子は教師として、また文学者としての活動をこなしながら、3人の子供の母親としても精力的に働きます。

小公子 (岩波文庫)善治は「女学雑誌」(1885年(明治18)創刊)という本を主宰しており、賎子はここで作品を数々発表。そして、ついに「小公子」の翻訳を日本の世に送り出したのです。それは、文章に口語体を取り入れた、それまでの文語調主流のものとは違ったものでした。

しかし、ハードな彼女の生活はもともとあった持病の肺結核を進行させるものでした。1896年(明治29)には、それに追い討ちをかけるかのような事故。それは二人が開いていた※5明治女学校が火事でほとんど焼失したこと。4人目の子供を身ごもっていた賎子は火事のショックもあったのか、その5日後に容態が急変して亡くなりました。夫、善治の悲しみは計り知れないほどのものだったと言います。

賎子のペンネームは出身地の会津若松の若松、そして、賎子という名はクリスチャンだった彼女の神の僕であるというところから来ているとのことです。善治との結婚の際にも「自分は夫のものではなく、あなたが成長をやめれば自分は一人でも進んでいく」といった詩を彼に送っています。だからと言って彼女が封建社会だった江戸時代から新たな文化の西洋文明に触れて異国かぶれであったかというと、そうではありません。

賎子の写真は洋装のものが一枚も残っていません。洋行帰りで政府高官の大山巌の妻となった同じ会津出身の※6山川捨松が、※7鹿鳴館で外国人相手にドレスを上手に着こなして接待をし、夫の縁の下の力持ちになったことと比べると対照的。賎子の心の中には会津侍の娘という強い思い、ひいては日本女性であるという確固たる信念のようなものがあったのかもしれませんね。けれど、捨松が日本をおろそかにしていたというわけではありません。どちらも江戸から明治時代へと大転換期に活躍した会津女性です。ドレスと着物、外国人相手に政治家の夫をサポートする妻と夫と共に女学校で女子教育に力を注ぐ女流文学者。一見、対照的ではありますが、ふたりとも、そして当時、活躍した女性達は、歴史に名を残す男達同様に日本の未来を思い生きていたはず。日本女性の芯ある生き様を残すことで将来の日本女性へのエールを送っているようでもありますね。

彼女の、彼女たちのこの心強い生き方は非常に魅力的です。いいものは吸収して自分のものにしていく、そこには偏見などは感じられません。素直で純真な心と確かな自分の中の真実を拠り所にして生きる素晴らしさ。忘れがちな大切なことを教えてくれる女性です。

賎子の墓は東京の染井墓地にあります。その墓石にはただ「賎子」とだけ記されている。それが彼女の遺言であったとのことです。(2001-10-08)


「小公子」は、何度も映画化やドラマ化がされている。私が一番印象に残っているのは、やはりリック・シュローダーがセドリック役を演じたテレビドラマ作品。ちょうど、「チャンプ」でデビューした彼が日本でも可愛いと人気が出てこのドラマも放送された。健気な少年役のリックはここでも光っていたっけ。ちなみに、日産の誰もが知っている車セドリックは、この「小公子」の主人公セドリックに由来する名前なんですって。知ってました? ちょっと意外でした。
小公子の作者フランシス・ホジソン・バーネットに関しては緑さんのMidori,s Roomでも詳しく紹介されています。作家の年表や映画化・ドラマ化された作品について見ることが出来ます。


※1元治元年:黒船のペリー来航以来の激動の最中。この年には明治維新を1年遅らせたと言われる『池田屋事件』も起きている。
※2公用人物書:今で言うスパイのような仕事とあって彼の様子を詳しく記すものがあまり残っていない。
※3藩主:この時の会津藩主は松平溶保。当時、京都守護職として京都の治安を守る職にあり、京都詰であった。
※4女学校:明治となった日本では1872年(明治5)から女子教育が学校という形で行われるようになる。宣教師によって私塾としての設立も多かったが、実際に教育を受けられる女性は限られていた。横浜には戊辰戦争で負けた会津藩士や幕臣の家臣や師弟などが多く集まっており、その中にはのちに明治学院を設立する元会津藩士の井深梶之助、妹のたみもいる。たみは賎子と共にミス・キダー学校に入学し、ともにフェリス女学院で教鞭を取った。
※5明治女学校:賎子たちは校舎と同じ棟に住んでいたと言う。1891年(明治24)の学校校則一覧には明治学院卒業生の島崎藤村、北村透谷、戸川秋骨、戸川安宅、桜井鴎村なども教師として名を連ねている。火災の後、巣鴨庚申塚に再建されるが、1908年(明治41)に廃校。
※6山川捨松:会津藩家老山川大蔵の妹であり、後に大山巌の妻。明治4年に欧米使節団と共に派遣された女子留学生の一人。賎子がフェリスを卒業した同じ年に留学先の米国で最古の女子大ヴァッサー・カレッジを優秀な成績で卒業している。彼女も明治期に外国で学んだ女性として活躍した一人と言える。詳しくはいずれこの場で取り上げたい。
※7鹿鳴館:明治政府の不平等条約改正という悲願達成のために井上馨の手によって作られた外国人接待の場所。1883年(明治18)11月28日東京麹町山下町にオープン。設計は英国人建築家ジョサイア・コンドル。建築費は現在の金額に換算するとおよそ40億円といわれる豪華な建物であった。昭和15年に解体され、現在は大和生命ビルとなっている場所に碑がある。江戸東京博物館で模型が見られます。