第6回 柳原白蓮

やなぎはらびゃくれん(1885-1966) 歌人
すべてを捨てて諦めていた恋の情熱に身を委ね再出発した歌人

柳原白蓮の生涯: 愛に生きた歌人彼女は伯爵柳原前光の妾の子として明治18年、東京に生まれました。本名は燁子。大正天皇の従姉妹にあたる血筋です。そして、当時の慣習にならい14歳で家族の決めた北小路子爵家の息子資武(すけたけ)と結婚し、15歳で男児を出産するも、精神薄弱に近い資武との余りにひどい結婚生活に見かねた白蓮の家族は5年後に離婚させます。しかし、子供は夫の母に奪われてしまいました。実家に戻ったものの、『出戻り』であるが故に幽閉に等しい生活を余儀なくされた燁子。

その生活が終わったのは27歳の時の再婚でした。相手は九州一の炭坑王の伊藤伝右衛門。けれど、それは貴族院議員に出馬する燁子の兄の金欲しさと名門の家柄を必要とした伊藤家、そして幽閉生活からの脱出を願う燁子との利害が一致した末の政略結婚でもありました。

伊藤は『あかがね御殿』と呼ばれる豪華な大邸宅を作って燁子を迎えるのですが、25歳年上の彼には女中を兼ねた妾や誰が産んだのかもわからない子供が何人もあったと言います。そんな生活の中でも燁子の転機は、佐々木信綱の門下生となったことで訪れます。

歌人として注目されるようになった燁子。その彼女の更なる転機は、東京帝大法学部に通う傍ら雑誌『解放』の編集をする宮崎龍介との出会いでした。運命的なふたりの出逢い。けれど、まだ人妻の恋愛が姦通罪として制裁されていた時代。さらに、燁子は30代半ばで、宮崎は彼女よりも6歳年下であり、社会革命の理想に燃える帝大新人会のメンバー。これは実るはずのない恋でした。

それでも二人の恋は燃え上がり、燁子は宮崎の子を宿します。それは二人の気持ちを確認し、固めたきっかけとなります。燁子は伊藤と上京した際に姿を消し、二日後、伊藤に対し、『私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます』という公開絶縁状を朝日新聞に掲載しました。これは帝大新人会の画策とも言われていますが、燁子自身の確固たる意志と覚悟が明らかに示されているものでもありました。伊藤は毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に非常に沸いたと言います。

この結末は、燁子の華族からの除籍と総ての財産没収によっての離婚の成立、というものでした。燁子は再び実家の柳原家に一室に閉じこめられて、そこで男児を出産。そして、二年後の関東大震災のどさくさのおかげでようやく親子三人の生活が現実のものとなりました。

平民となった燁子は経済的には苦しい思いをしたかも知れませんが、宮崎と添い遂げた半生は、決して不幸ではなかったはずです。知らなかった「恋」という感情に燃え、それを貫くためにそれまでの生活や人生を投げ捨てて愛しい人との再出発に賭けた彼女の思いは、当時の情勢を考えれば並大抵のことではないでしょう。

日本史上では、激しい気性をそのままぶつけるような生き方をした女性が有名です。女性の生き方やそのプロフィールが詳しく残っているケースが少ない中、白連はその雅号の名の通りのような人ではないかと感じます。穏やかでありながら、自らを主張する強さを秘めている、静かな泥の中に存在を際だたせている白い蓮のような女性だったのではないでしょうか。(2000-10-04)


追記:2014年にNHKで放送された「花子とアン」の葉山蓮子(演じたのは仲間由紀恵)が白蓮のモデルということで一気に注目された感じがします。このドラマを私は見ていないので、どんな風だったのかはわかりませんが、このドラマのおかげで白蓮に関する本や小説なども紹介されて私の気持ちも読んでみようかなあと傾いています。燁子の波乱に富んだ人生は一般人とはかけ離れているようにも見えますが、こうした情熱は誰もが秘めているものではないかなあ、と考えたりもしてしまうのです。まあ、それが発露するかどうかはその人自身の性格や気質、環境や運なんかも大いに影響するところではあるんでしょうね。(2015/08/28)

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