第12回 イレーヌ・キャッスル

Irene Castel(1893-1969) ダンサー
ダンス狂時代を開幕させた人気ダンシング・ペア、キャッスル夫妻

 ソーシャルダンスのフォックストロットの原形を作ったといわれるイレーヌがヴァーノンと出会ったのは1910年。ヴァーノン・キャッスルは、英国生まれで技師になる勉強をしている青年でしたが、ニューヨークに来て知人の芝居を手伝っているうちに役者になり、イレーヌはヴァーノンの紹介で女優の卵としての生活を始め、二人は結婚します。

しかし、ブロードウェイでは目が出ず、イレーヌは先輩と喧嘩をしてして、役を降ろされてしまいます。二人はパリのレビューに出る話を受けて渡仏。当時、アメリカではグリズリー・ベアとかテキサス・トミーと呼ばれる新しいダンスが流行していて、ヴァーノンはそのダンスを取り入れて踊ること思いつきます。けれど、実際にはどんなものが観たことはなく、二人は新聞記事を読んで想像し、新しいダンスを作り出したのです。

有名なナイトクラブのカフェ・ド・パリで認められた二人のダンスは、それまでのパリで踊られていたアパッシュと呼ばれる荒々しいものではなく、ジャズの走りであるラグタイム音楽を使用した優雅なもので、非常に新鮮に見えたようです。見るだけのダンスから自分で踊るダンスへと、ダンス狂時代の幕開けでした。そして、イレーヌとヴァーノンはキャッスル夫妻としてその名を広めていくことになります。

1912年に夫妻はニューヨークへ帰国。ここではカフェ・ド・ロペラでの出演が決まっていました。二人の人気はうなぎ登り。イレーヌは洒落たセンスを持っていて、自分で衣裳のデザインもしました。踊るためのスポーティで、しかしエレガントな服はキャッスル・フロックと呼ばれ、踊るときに眉のすぐ上の額につけたヘアバンドはキャッスルバンドと呼ばれて人気を集めました。イレーヌはファッション・リーダーとしても活躍したのです。

また、彼女は1920年代のモダン・ガールに代表されるボブ・スタイル(女性の髪形のひとつ。いわゆる断髪というもの。日本でもモボ・モガの大正・昭和初期に流行った)に最初にした女性の一人と言われています。

やがて、第一次世界大戦開戦。その最中も二人はアメリカで活躍していましたが、英国人のヴァーノンには戦線が気になっていたようです。彼は泣いて引き留めるイレーヌの為に帰国を先延ばしにしていましたが、ついにパイロットとして従軍します。1917年のクリスマス。イレーヌは休暇をとってロンドンに戻っていたヴァーノンとサヴォイ・ホテルで再会を果たしました。そして、プリンス劇場の大勢の観衆の前で二人のキャッスル・イン・ジ・エア(空中の城)を見事に甦らせたのです。

しかし、それが二人の最後の舞台となりました。翌年2月、ヴァーノンは飛行機事故で帰らぬ人となるのです。イレーヌはその後、3度結婚をし、1969年に76歳でこの世を去りました。(2001/05/31)


ヴァーノンとイレーヌはダンス教室で生徒に教えたりもしていたが、人に教えるのが下手なイレーヌに比べ、ヴァーノンは優しく上手に指導したので、女性にも人気があり、誰もが彼と踊りたがったという話がある。彼は非常に優しい男だったらしい。一方、イレーヌは髪を断髪にしたきっかけになった盲腸の手術の入院中のエピソードからもその気性が伺える。髪を看護婦にさわられるのが嫌だから切ってしまったというきっぱりした気の強さ。25歳の時にヴァーノンと死別したイレーヌは3人の男性と結婚したが、あまり幸せではなかったのかも知れないと私は思う。ヴァーノンとの結婚生活は、あまりに早く過ぎて幸せすぎた為、彼の優しさを越える男性に巡り会えなかったんじゃないか。本当のパートナー、魂の半分に出会ってしまったという感じさえするのだ。もちろん、それは本人が死ぬときにしかわからないことだが。ヴァーノンを失ったあとの彼女の人生には何が残っていたのか、私の興味をひくところだ。
のちに二人の映画「キャッスル夫妻」(1939年)も作られた。夫妻を演じたのは、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズ(二人はこの映画を最後にコンビを解消している)。ハリウッドの黄金コンビとも言えるアステアとロジャーズだったが、イレーヌは自分を演じるジンジャーをいいとは思ってはいなかったようだ。

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