第19回 マリリン・モンロー 前編

Marilyn Monroe(1926~1962) 女優 前編
人々が夢の中で見つづけていく実際には存在しない美しい幻影

 マリリン・モンロー、本名ノーマ・ジーン・ベイカーは1926年6月1日、ロサンゼルスに私生児として生まれました。母の名はグラディス。父の顔をマリリンは知りません。「お父さんよ」と母が見せてくれたのは、クラーク・ゲーブルの写真だったと言います。だからマリリンにとってクラーク・ゲーブルは憧れの男性でした。幼い頃のマリリンは、とても不幸だったといいます。母グラディスは、精神に異常をきたし、マリリンは親戚の間をたらいまわしにされたのです。マリリンは肉親の愛情を知らずに育ちました。マリリンの生い立ちはあまりにも哀しくつらいものでした。

映画女優としてのマリリン。きっかけは、モデルになったことでした。有名なヌード写真は、このモデル時代のものです。そうしているうちにマリリンは端役ながら映画出演のチャンスをつかみます。この頃、既にマリリンは忘れられない印象を残していましたが、52年の「ノックは無用」でイカれたベビー・シッターを好演、二十世紀フォックスは大々的な宣伝で彼女をセックス・シンボルに仕立てたのです。そして、53年「ナイアガラ」でのお尻を振って歩くモンロー・ウォークで人気爆発、マリリンはハリウッドのスーパースターになりました。セックス・シンボルとして、またコメディエンヌとしてマリリンの人気はとどまるところを知りません。

しかし、それはマリリンが本当に臨望んでいたことではありませんでした。演技派女優として、シリアスなドラマを演じることを目指していたマリリンは、スターの座を捨ててニューヨークに行き、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ポール・ニューマンらを育てたリー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオで演技の基本から勉強をしなおします。マリリンは優等生でした。ストラスバーグは、マリリンの演技者としての才能を高く買っていたと言います。そして、ハリウッドで戻って作ったのが、マリリンの代表作「バス停留所」でした。

しかし、大衆が彼女に望んだのは、あくまでもセックス・シンボルとしてのマリリン・モンローだったのです。マリリンは、決して演技者としての正当な評価を得ることはありませんでした。それは、女優マリリン・モンローにとって大きな悲劇であったと言えるかも知れません。(by Kozue Yukimura)


★今回は私の友人が綴ったマリリン・モンロー前後編です。後編はこちら

マリリンは不思議な女優です。私は大好きな女優と言うわけではありませんが、何故か気になります。映画もおもだったものはほとんど観ました。アメリカではブロンドは頭が空っぽというイメージが強くて、女優達はブロンドになるのを嫌がるといった話を以前聞いたことがあります。これまでの映画界での作品の中の印象でしかないのでしょうけど、過去にはそうしたことにとらわれていた傾向にあったのも事実のようです。当サイトの映画コーナーでも紹介している映画「ノーマ・ジーンとマリリン」の中でも髪を染めるのを嫌がるシーンが出てきますが、ブロンドにしたことによって、マリリンの運気が変わったことも映画の中では匂わせていて、何とも皮肉なものです。
彼女の本当の姿とは、一体どれだったのでしょうか? 髪の色や姿形だけでは推し量れない真実の姿とは……。あの有名なモンロー・ウォークも計算されたものであったとか、体型を維持するためにエクササイズを毎日欠かさなかったとかいったエピソードも残っています。けれど、もう真実を確かめるすべはありません。たとえ、それを私たちが知ったとしても、スクリーンの中で輝くマリリンのイメージとは別に受け止めることが出来るでしょうか? 実像とかけ離れていった分、マリリンは伝説として人々の中で生き続けている、そんな気がします。(佐緒 2002/7/19)