魍魎の匣

遅ればせながら、アニメと映画の両方を見た。しかし、原作は読んでいない。出版された当時からファンであった私の友人が好きな作家、京極夏彦の作品であり、話題にもなっていた。私も読んでみたいと思っていたのだが、その気持ちのまま時は過ぎた。
この作品は、憑き物落としと古本屋(京極堂)を生業にする中禅寺秋彦(店の屋号で呼ばれている)が主人公のミステリーでもある。観察眼に長けている彼は周囲の人間の(どうやら大学の同期や先輩・後輩らしい)の話を聞いて事件の謎を推理し、解決へと導くのだ。
アニメ化作品、映画化作品を見た今、原作を読んでいなかったからこそ鑑賞できた、という思いと同時に原作を読みたい、という強烈な熱望のような思いとが入り混じった複雑な気持ちだ。

映画は原作をかなり改変したあらすじで2時間強に収められているとあったが、アニメを先に見た私にもそれはわかった。アニメがどのくらい原作に近いのかはわからないが、映画は時間的に原作の長さや複雑な人間関係、思いを見せるには限界があったと思う。登場人物も多いのでよりわかりにくい。こうした作品で時々思う「出演者は役名の名札つけて登場して」なんて気持ちがここでもまたふと湧き起こる。

映画の終盤の京極堂(中禅寺)の「登場人物それぞれの側から見たストーリーがそれぞれ展開している」といった語りにあるように、確かにこの話の中でポイントになる人物たちによる自分の思いを果たすための行動や事象が、物語の真実、そして事件の真相を花びらのように包み隠す。
美少女の連続バラバラ殺人事件、御筥様をお祀りする寺にお布施をした人はみな不幸になるという奇妙な噂、事故で瀕死の重傷を負った元映画女優、陽子の高校生の娘の加菜子の謎の失踪。この3つの事件が複雑に絡み、一つに繋がる時に見えてくるのは人の強烈なまでの願い、想い、信念。もはやそれは願いや想いや信念などではなく、まるで怨念とも言えるような誰もが自分の心の奥底にそっと隠している邪悪な部分。
家族の、近しい人の幸せを願っての祈りであるはずの宗教の存在や、不治の病を無くすため、人類発展のための(それは純粋に医療のため、というだけでなくいろんな意味で)科学という人間社会の中で排除することのできないものの存在が、果たして本当に人を助け、幸せにしているのか、と思わざるを得ないラスト。時間を経るごとによく言われる「手段が目的」となってはいないのか。

映画のラストは、狂気の科学者となった美馬坂がどうなったのかはわからず(多分死んだ)、陽子は女優に復帰し成功を再び手にする。陽子と加菜子の世話係だった雨宮は崩壊する研究所から頭部だけとなった加菜子を箱に入れて持ち出し、2人きりの旅に出たのであろう列車のシーンに登場して終わる。
死んだ他の登場人物、新進気鋭の新人作家久保にしろ、加菜子の唯一の友人賴子にしろ、美馬坂の助手の須崎にしろ自分なりの物語の中の思い描いた最期ではなかったでろう。だが、生死を分けたのが何にしろ、誰もが抱いている共通点は「狂気」であると思えてくる。

従軍していた第二次世界大戦中の終盤に久保を助けた探偵の榎木津は、こう呟く。
「あの時、久保を助けるんじゃなかった。そうすれば、こんな事件は起こらなかった」
後悔と責任を感じる榎木津の気持ちは誰もが抱くであろう感情ではあるが、この事件は榎木津のせいではない。好意や善意の行動がその好意を受けた人物を悪意の塊に、素敵だと思う憧れが殺意に、家族や想い人を助けたいと思う願いが自分を助けることへと変化していく過程は、本人以外の誰にも止めることは出来ない。戦争が人を変えたと匂わせるシーンがいくつか出てきたが、人を変えるのは戦争や戦場ではなく、もっと身近なありふれた生活の中に潜んでいる感情だ。常にそこにある負の思いだ。
人間の見たくない、見せたくない部分を図らずも見ることになってしまった物語のメインキャスト、探偵の榎木津、刑事の木場、小説家の関口、そしてまとめ役とも言える京極堂(中禅寺)と、そして視聴者の我々。
決して後味のよいとは言えない終わりであるものの事件後のメインキャストたちの淡々とした様子が心に残ったような灰汁を私達から取り除いてくれた感じが救いかもしれないなあ、と思ったのであった。

映画としては私自身はちょっと残念賞。正直、榎木津役の阿部寛がいたから観てしまったと言ってもいいかも? この阿部ちゃんは時代的な背景もあるのだろうけど、ファッションモデル出身であることを再確認させてくれるものだった。やはり、かっこいい。
その他キャストのキャラを含めて原作とどの程度の違いやストーリーの相違があるのかは不明であるけれど、昭和の戦前、戦後を表現するために上海ロケでの撮影とのことだが、これまた時代の古さは感じるものの完全に日本ではないのは丸わかり。これは絶対にまずい。当時の日本に似た別の世界風になっちゃってる。女優復帰した陽子がラストで演じる演目も「楊貴妃」っていうのが、なんとも言えず……。
美しさと対比させるためなのか、それとも事件の狂気性を強調するためなのかのグロシーンも敢えて見せなくてもよかったのでは?と思ってしまう。
かなりの長編大作を映画で見せるわけだから、わかる気もしつつ原作はもっと面白いのだろうし、考えさせるものがあるのだろうなあ、と思わざるを得ない映画とも言えました。(2024/5/28)

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