日蔭のふたり

Jude 1996年 イギリス作品
監督:マイケル・ウィンターボトム
出演:クリストファー・エクルストン(ジュード役)、ケイト・ウィンスレット(スー役)、レイチェル・グリフィス(アナベラ役)、リーアム・カニンガム(フィロットソン役)、ジェーン・ウィットフィールド(ドルシラ伯母役)
原作:トマス・ハーディ


何とも重苦しい映画。ハーディが原作だから、本の方はもっと暗い内容なのだろうと創造する。やはり私はハーディは好きになれない。「日陰者ジュード」というタイトルから、主人公のジュードが勉強のために出てきた町で悪の道への堕ちていく話なのかと思ったら、そうではなかった。ジュードは真面目な青年でその真面目さゆえに恋にも一途すぎて上手くいかない。勉強も好きだが、結果的には進学はしない。町で出会ったのは、美しい従姉妹のスー。

才色兼備とも言えるスーだが、ジュードに対して煮え切らない態度を取る。ジュードはスーに結婚を申し込むが、スーは小学校の校長をしているフィロットソンの求婚を受けてしまう。というのも、ジュードは従兄弟であるだけでなく、結婚していたから。田舎には妊娠させてしまった女性アナベラがいて、彼女と結婚していたのだ。だが、すぐに気まずくなり、ジュードは妻子を置いて出てきてしまったというわけだ。

スーこそが、運命の相手であると信じるジュードはスーをあきらめ切れない。スーも本当はジュードを愛していて、ついには彼の気持ちを受け入れて同棲を始める。縛られたくない、こだわりたくないと、正式な形を取らなかった二人。愛さえあれば、と暮らし始めるが、世間はそう甘くない。冷たい目で見られ、仕事も住居もままならない。その上、田舎に置いてきたアナベラがジュードに「あなたの息子」と言って男の子を押し付けてきた。

この子とジュードとスーの間に出来た女の子と共に、ささやなか生活は始まるものの、結婚していない二人に世間はますます冷たい視線を向ける。家を借りる時にも、本当の理由は二人が正式に結婚していないことであると一目瞭然だが、家主は「赤ん坊がいるのは駄目」と二人の生まれたばかりの次女を見て告げる。家族が増えてより厳しい状況になったジュードとスー。「僕達、どうしてここにいられないの?」と聞くジュードの息子にスーは「私達は多すぎるから」と答える。そして、悲劇が。

ジュードとスーは子供が入学する学校を決めて、喜びいさんで帰ってくるが、そこで目にしたのは、息子の首吊りと彼が殺した妹二人。そして書置き。「僕達は多すぎるから」。スーは子供を失って、もう一緒にやっていけない、とジュードに告げ出て行ってしまう。ジュードはそんなスーを追い求める。

二人に身勝手さが全編に漂っていた作品だ。あまりの身勝手が腹立たしい。ジュードもスーも大人としての自覚、親としての自覚が足りない。スーは信心深い女性のように描かれていたが、そんな女性が子供に向かって、あんな言葉を言うとは! 縛られたくないとかこだわっていないとか言いつつ、自分自身が一番こだわっていたことに全く気づいていない愚かさ。ジュードの一途な愛もそうは言いつつも、それだけじゃ問題は解決しないことに気づかない馬鹿さ加減にあきれた。全く暗い映画だった。(2011/03/02)

追記:この作品は前述のとおり、トマス・ハーディ原作の映画化である。私は好きな作家ではないので、原作は読んでいないが、かなり重苦しい内容であるらしい。映画がどの程度、原作に近いのかは比べられないが、現代と違う社会、価値観の時代に書かれたその時代の話である。今の価値観に照らし合わせてしまうと「実に馬鹿げている!」と感じる場面も多々あると思う。時代に翻弄された悲恋の二人、という表現もあるのだろうけど、私はどうしてもかわいそうな二人では済まされない気持ちがぬぐえなかった。一途なのはいいし、真剣に互いを思っているのではあろうが、道理を通すことや自覚が足りなったと言わざるを得ない。信念を通すことは素晴らしいけど、わが子を犠牲にしてまでも通すものなのか、私には理解できなかった。曲げることもまた生きる道。もちろん、子供に対してそれを口にしないのは当然のことでもある。
ジュード役のクリストファー・エクルストンもよかったが、スー役のケイト・ウィンスレット、こうしたちょっと我の強い美人役は、やはり合ってますね! 海外ドラマ「ミルドレッド・ピアース 幸せの代償」でも似たような女性でしたが光ってました。(2019/07/08)

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